スーパーで感じた違和感

最近、スーパーに行って思ったのだが、単に野菜の名前と値段が書いてあるだけではなく、例えば「お鍋にどうぞ」などその用途まで書いてある。

その店舗の商売のうえでの工夫といえばその通りなのだろう。

しかし、私にはそれよりも、消費者の「何に使ったらいいのか分からない」という可能性を感じる。
豊かな社会で育った人々、親世代による至れり尽くせりの生活、そんな人々が親になったとき、料理は一体どうすればいいのか、何でできているのか、分からないのではないか?そのため、店側がこうすればどうですかと丁寧に教えてくれているのかもしれない。いや逆にそうしなければ売れないのかもしれない。
杞憂かもしれないが、私にはそれが社会の恐ろしい劣化の兆しを感じるのだが…

リメイクドラマとは

今更だけど、ドラマでリメイクとかがまだまだ行われている。

特に殺人事件が絡む推理モノ。

あんまり詳しくないけど、松本清張とか森村誠一とか横溝正史とか。

どうも昭和初期とか戦後の混乱期とか、そういう舞台が好まれるようだ。
今、平成26年なんだが。

思うにこういう推理モノっていうのはこういう時代がすごくしっくり
くるのだろう。
ざっとあげれば通信手段がまだ十分ではない、移動手段もなく、物資も
十分ではなく、貧富の差は大きく、街もどんより暗い。また物理的にも
夜は暗い、といったような雰囲気だ。

こういうので卑近な例でいえば「トリック」だろう。オマージュという
方法もあるけど、これに関してはもう意図的にパクってると言っていい。
視聴者にああ、あれのことね、と思わせたら相手側の思うツボ。

「トリック」は過剰なまでにこうした昔の推理モノを強調する。
因習深い山村で起こる不可思議な事象。恐れおののく村人たち。
しかも電波が届かないことからケータイとかはつながらない。
一体いま何時代だよ!!と突っ込みたくなる。
さらにキツイ方言、変な服装、文明の利器に疎いなど田舎モンをバカ
にしてんのか!!とも。

これは現在の文明社会への批判が込められているとか、何かの意図が
あるとかは置いておいて、やっぱり物語をつくるうえで今の時代って
難しいというか、便利すぎて、高度に発展しすぎて、逆に作りにくい
のだろう、と思う。

何か事件が起こっても、ケータイですぐ連絡がとれたら面白くない。
やっぱり駐在さんを呼びに行って、その間に犯人が逃げて、という展開
にしないと物語が進まない。

そして、こういう物語の背景ってやっぱり“深い悲しみ”が覆っている。
戦争がもたらした悲惨さ、個人をとりまく運命、差別、そうしたものが
事件の背景として語られることが多い。

また、人間というのは分からない、ということを恐れる。
闇を恐れる。
近代以前は今では迷信と言われることでも人びとは今よりもっと
信じていたのだろう。
そうしたことを近代以降、科学で解明し、地球の隅々から宇宙へ
飛び出し、また遺伝子レベルまで人間は挑んできた。次々と物事
に説明がなされ、人間から恐れが薄れてきた。


こうして何でも解明されたつまらない現代よりももう60年以上も
前の暗い世界を舞台にした方が魅力的なのはなんとも皮肉なものだ。

ふと、最近のドラマを見ていて思った。

思い出したらブログ

久しぶりに書く。

普段ブログのことなんて意識していない。

思い出したら書くような感じ。

そういや自分もブログやってたんだ、と思い出す。

前回書いた記事を読んで、ほらやっぱりもう誰も何も言わなくなりましたね。

今は浜松のノロのことかな。厳しくなりそうだ。

1月も半ばを過ぎたが、例年よりもゆったり感じる。

はてさて2014年とはどういう年になるのだろうか。

最近の報道から思うこと

相次ぐ食品“偽装”表示報道。

ほんと、ある種の流行りだよね。何かのことで火がつくと、次々と新たな
ことが次々と明るみに出る。これまでもどれだけそれを繰り返してきた
ことか。

そして、あっという間に話題にも上らなくなり、記憶にすら残らなくなる。

あー、そういやそんなこともあったね、なんて年末の今年を振り返る特番
でも見て思いだすんだろうね。

芸能人とかでもそうだけど、ほんとにその渦中はもう徹底的にボコボコに
するよなぁ。まるで殺人犯のごとく扱うのってアレどうなんだろ。
その人間を徹底的に否定し、完膚なきまでに叩きのめし、殺しはしない
ものの、社会的に葬り去ってしまう。でも実際、ほぼ全員(当事者以外)
にとってそんなこと関係ないのにね。まるで自分の何かを奪われたように
狂気のようにその人を責め立てる。おかしいと思わないのだろうか。
卑近な例だけど、矢口の不倫なんて当事者とその関係者以外のすべての
国民にとってほんっとうに(強調のつもり)どうでもいいことでしょ。

この食品“偽装”表示報道も今は流行りだから連日やっているけど、
もうその時期が過ぎたら台風のように消えてしまうのだろう。
日本人って熱しやすく冷めやすいのかもね。

まぁ、1つが明るみに出たから自分のところも今が言うチャンス、という
ことで言っているだけだろうけどね。ここで言っておかないと、嗅ぎつけ
られて、もっと叩かれるかもしれないからね。そうすると、今までの
隠しておくという判断ではなくちょっとは賢くなったんだろうけど、
単にイマドキの炎上の恐ろしさを企業は知っているからだろうね。
ワンマン社長の不用意なつぶやきがとんでもない事態を招いている昨今
ですから。

しかし、どこの会社の皆さんも言っていることが苦しいですなぁ。
それは誤表記とは言わないと誰もが思うと思うのですが。もし自分が
客だったらどう思うんでしょうね。聞いてみたいもんです。
でも口が裂けても絶対に偽装でした、なんて言わないでしょう。
それだと詐欺だもんね。立入とか入られそうだし、ひょっとしたら訴え
られるし、イマドキだったら下手したら会社が吹っ飛ぶかもしれない
もんね。
今は耐えて耐えて、ひたすらみんなが話題にしなくなるのを待つしか
ないね。多分そういう戦略なんだろう。それに皆で渡れば怖くない的な
「いや、あの大手の○○、老舗の○○だってあったんだから」ということ
で相対的に皆でダメージを軽減している感もあるね。

しかし、怒っている人は何を怒ってんだろう。

騙されたから?

裏切られたから?

でもそんなん、別にいいんちゃうん。

なんていうか、皆さん純粋というか、何というか。

そんなん嘘かもしれん、とか味なんかわからん、区別なんかつかん、
とか思わんのかな。

まぁ私も高級レストランとかだったら信じるし、高い金払って違って
いたら嫌だけど(そのために金払ったんだぞってなるもんかな)
でも死ぬわけでもないし、自分の生活が脅かされるわけでもないでしょ。
あ、でもアレルギーの件はやっぱダメだな。それについては許されない
と思う。今の世の中としては。

ちょっと前に同じくクール宅急便の件でも話題になったけど、そんなの
起こりえることだと思わないのね。私はとある事業者で1ヶ月夏場の
くそ暑い時にバイトしたことがあるけど、クールは知らんが、結構
粗雑に扱っていた。現場の人間なんてこんなん言ったらあかんかもしれん
がほんと粗雑な人らがいるわけで、そんな人らにきちんと丁寧に扱え
なんて無茶な話だろう。めちゃくちゃたくさんの荷物をしんどい環境下
でやらないといけない中でキレイゴトなんて通用しないよな。
原発の作業員だってそうだと思うよ。それを騒いでいる一般のおばさま
方はきっとそんな仕事をしたことも見たこともないんでしょう。

でもこういうことが起こって、やっぱ世の中って絶対ってないし、そう
思っておいたほうがいいんじゃないかな。

そうやってどんどん、どんどん世の中って壊れてきたのがここ数年だと
思う。もう何でもありだし、何が起こっても変じゃない(ミスチル!?)

話が飛躍するけど、学校の先生とか医者とか官僚とか政治家とかの価値
とか威厳とかはすごく下落したし、個性だのゆとりだので何でも認めて
来た結果が今の世の中なんだと思う。
世の中とか企業とかの裏側を見せるテレビ番組も増えたし、ネットも
普及した。それでワケありグルメだの、オトクな買い物だのが当たり前
になり、そんな世の中で今更老舗百貨店は大丈夫だ、安心だと、調子が
良すぎだろ。

人間て怠惰だし、アホだし、ズルもするし、セコいし、まぁ要するに
ちゃんとしてないってことだ。そういう私はすごい生真面目に生きてきた
人間だ。だからこんなこと本当は言いたくないし、思いたくない。
はっきりいってちゃんとしていない人間に腹を立て、ストレスをかかえて
生きてきた人間だ。だけど、やっぱそういうことなんだ。


立派な人、聖人君子や匠のような人はいると思う。でもそういう人よりも
大多数のちゃんとしていない人の社会だということを認めたうえで
こういう事態が起きても、まぁそういうこともあるよな、と思う今日
このごろである。

読書について

折に触れて読書ネタを書いているが、私は読書が好きだ。単なる本を読む、ではなく、客観的に読書という行為や方法、蔵書や収納などにも興味がある。そういった類のことが書かれている本も読むし、興味がある。

読んでいた本に「あと残りの人生で何冊本を読めるか」というような文章があり、ハッとさせられた(『つながる読書術』p190)。たしかにそうだ。今の世の中、年間8万冊と言われる程本が刊行されているそうだ。そんな中でいかに自分に有益な本を読むべきか。そして、くだらない本を読まないか。

あと何年生きるか分からないけれど、30歳になる今年、80歳まで生きるとしたらあと50年、還暦までは60年。そう考えるともう折り返し地点だ。もともと読むスピードは遅い方だが、最近遅くなったと感じる。仮に1週間に1冊読むとしたら年間約50冊。頭がクリアに読めるとしてあと30年、そうすると1500冊しか読めない。たったそれだけなのだ。今、自分の部屋にはおそらく約2500冊の本があるが、その程度なのだ。びっくりする。前述の著者は1日1冊を自分に課したとのことだが、そうすると年間365冊、30年で1万冊ちょっとだ。
とてもではないが、そんなことではこの膨大な情報の世の中におっつけない気がした。せっせと読んでいる間にも続々と本は刊行されていくのだろう。
(そういえば、中谷彰宏氏は著書で大学時代に90分の講義で最前列で10冊読んでいたらしい。しかもしっかり授業を聞いたうえで、だ。いやはやすごい)

日本人は読書をする国民だと言われても、現実的に1ヶ月に1冊本を読むという人がほとんどいないらしい。だからちょっと読めばすぐに読書に関しては上にいけるらしいが、おそらく読む人と読まない人で二極化しているのだろう。先の著者は別の著書で本を読まない人に対してこんなに分からないことが多すぎる世の中で本を読まずに生きられるなんてすごいと言っていた。もちろん逆説的に皮肉っているのだけれども。

ともかく、こんな世の中の知について知りたいと望んでも、有限の人生の中で全てを知り尽くすことなんて到底できないんだなぁ、その中のごく一部を知って、消えていくのだなぁと思うと悔しいものだ。もちろん読書だけで得られないことだってあるし、読書にあてる時間だけが人生でもないけどね。

最近の風潮

 今の世の中で、「がんばらなくてもいいんだよ」とか「無理しなくてもいいんだよ」とかが語られることが多くはないか。「人はそれぞれ違う」「個性を大事に」とかも。

 確かにそういうのは大事だと思うけど、まだまだ若者だと思う自分ではあるが、それでも子供のときと比べても時代は変わったなぁと思う。たとえばできない子がいても、それを個性だと言ったり、「あなたは今のあなたでいいんだよ」といったように肯定的に捉えたりするようことだ。差別だとかいじめとかもあって、まだまだかもしれないけど、学校とか社会でも随分理解が広がっているように思う。

 それとともに「病気」の種類がどんどん増えているように思う。逆に言えば今まで病気と認識されなかったものまで病気とされるようなってきている。それによって、今まで不安の中で過ごしていた人にとっては「ああ自分は病気だからこうだったんだ」というような安らぎを与えたかもしれない。社会から一定の理解を得ることができたかもしれない。だが、それによって逆に「病気」だとレッテルを貼られる危険性もある。また、本人にとって、「病気だからできなくてしょうがない」というある種の“逃げ”はないか。もちろん病気で必死で戦っている人もいるかもしれない。だが、よく話題になる、日常生活は全く支障がないが、仕事中はうつになるような都合のいい“うつ”とかからもそのように思われる。

 このように理解が広がった”やさしい”社会において、じゃあ今までは何だったんだ、と私は思う。できない、そんなことを「病気だからしょうがない」とかも言わず(そもそもそういう発想がなかったのではにないか)、有無を言わせずスパルタ的にやってきたのが、今までの世の中だったのではないか。そこでは言い知れぬ差別や偏見もあり多くの人の涙があったのかもしれない。そうしたことから「それはおかしい」という思いが今の社会を作ったのかもしれない。

 しかし、この違和感は何なんだろう。普通のことができないことに対して、これは○○だからできないんだ、みたいな言い方で「じゃあ他のことでできることをみつけよう」とか。自分の中でうまく消化しきれていないけど、こうしたことは先日の「青春リアル」を見ていて思った。

 近年、本をどんどん購入している。そうなると本棚にも入らなくなってきている。昨日、机の上とかに積んでいた本を片付けて何とか本棚に入れたんだけど、今までカテゴリー別に入れていたのだが、それも難しくなってきた。本棚を買うか、広い部屋にしないとだめだな。基本的に売らないから増えるばっかりだし。

 そもそも漫画以外で本を買い始めたのは大学生ぐらいからだったと思うが、昔はリアル書店でしか購入していなかった。アマゾンの存在を知っても、学生だったからクレジットカードを持っていなくて使っていなかった。就職してからカードを持ち始めたのでアマゾンを使い始めた。

 本を買うのが一種中毒みたいになってきている。ほとんど古本。それもネット。今ではネット書店のヘビーユーザーになっていて、多分1年のうち350日はアマゾンをチェックしていると思う。2年ぐらい前からebookoff、昨年ぐらいからbookoffonlineも使い始めた。それぞれを使い分けながら、結構安く購入している。もうリアル書店で新品で買うことはほとんどない。本屋にぷら〜と行って、「あ、これ欲しい」と思って買うこととかまずない。雑誌とか、古本では手に入らないようなものぐらい。本屋ではどんな本かをチェックして、ネットで調べて、安く手に入れる。その時点でなければ待つ。そんな感じ。

 で、そんなにたくさん買っているけど、ちゃんと読んでいるのか、というと実はあまり読んでいない。手に入れたことで満足して、本棚に入れているものが多い。あるいは、風景の写真集など「読む」というよりは「見る」ものも結構あり、いわば「資料」という位置づけで置いているものもある。そういうことから読書が好きというより、本を安く買うことが好き、趣味と言えるのではないか、と思う。

 本をたくさん買っているが、本棚には一体何冊あるんだろう、と昨年数えたら1400冊弱だった。もっとあると思っていたんだが。今では何冊あるか数えていない。

 本を読んでいて見つけた著者の蔵書や本代とかを見ると、圧倒的な読書量を誇る立花隆は自分の蔵書を保管するために地下1階、地上3階の「猫ビル」というのを建てた(「猫ビルについては『ぼくはこんな本を読んできた』に詳しい)。また、佐藤優との対談本『ぼくらの頭脳の鍛え方』によると蔵書数は7、8万冊、佐藤は約1万5千冊だそうだ。一方本代には立花は1ヶ月で10数万円、佐藤は約20万円だそうだ。
 続いて、日垣隆の『こう考えれば、うまくいく。』の中で紹介されているが、経営者の本田直之は1ヶ月で7〜8万円、1年で100万円くらい。勝間和代は1ヶ月に50〜100冊、本代は10万〜15万円くらい。そして、対する日垣氏は2009年には568万2190円、その前年は511万8303円だそうだ。桁が違うね。
 自分は、昨年、支払いベースでいくと約450冊、20万円強だった。その前年は約250冊、15万円強だった。もちろん、古本なので、すべて新品で買っていればおそらく倍はしただろうと思われる。

 出版不況、危機が叫ばれているが、自分もその一端を担っているのかもしれない。